ひとはそれを受け入れるため配役を替えながら人生劇場に立つのだろうな

影織、ふてくされる

先日、些細なことで恋人ともめました。
というより、私が一方的に不機嫌になって黙り込みました。
お恥ずかしい。

どうせ私の考え方がおかしいのが悪いと否定されるだろうな、言ってもわかってもらえないかもしれないしな、黙っていたら何もなかったことになるかな、相手も怒っているみたいでなんだか言いにくいな…などなどと一気にいろいろ考えてしまい、黙るよりほかなかったのです。

そんなふてた態度でいたら、「君が黙っていたらわからないから困っているんだよ、怒っているわけじゃなく」と言われて、やっと不機嫌の理由を話すことができました。

その事件を思い返していて、ふと昔のことを思い出しました。
※以下、母親の話が出てくるので、つらい方は、読むのをおやめください。

むかしのはなし

母親は、なにかのきっかけで不機嫌になると、そのまま一言も口をきいてくれなくなり、寝室に閉じこもる人間でした。

子供からしてみれば、赦してもらわないと生存に関わるわけですから、原因もわからず、とにかく泣きながら謝るわけです。
しかし、「もう怒っていませんから!」とめちゃくちゃ不愉快そうに返事され、それから朝まで口をきいてもらえないことがしばしばありました。

今も当時のことを思い出すと、胸がざわつきます。

でも、先に述べた不機嫌な自分が母親と同じような対応をしていると気づいたんですね。

その時、吐き気がするほどの嫌悪感を感じました。
と同時にふと、「ひとは被害者や加害者の配役をくるくる変えながら、同じようなシチュエーションを再演しては、受け入れがたいもの(怒り、悲しみ、傷)を受け入れるために学び続けているのではないかな」などと思ったのです。

あの人には、多分「どうしたの」「つらいの」と受け止めて真摯に聞いてくれる人が近くにいなかったのでしょうし、その役割を子供の私がやるにはあまりに重過ぎました。
だから、不機嫌なことがあったら、これ以上傷ついたり、不愉快な思いに押しつぶされないよう、一人閉じこもる必要があったのでしょう。

配役を変えて学び続けること

人との約束を破った時、過去に約束を破られた時の怒りを受け入れる。
人を傷つけた時、過去に傷つけられた悲しみを受け入れる。
自分が「加害者」になってしまってから、あの人も、約束を破りたくて、私を憎んで傷つけたくてあんな事をしたのではなかったかもしれないと気付く。

あるいは、昔の自分のような人を目の前にして、あの時言ってほしかったのに、誰にも言ってもらえなかった言葉をかける立場になる。
昔の自分のような人を目の前にして、否定せずに「あなたはそれでいいんだよ」と伝える。

被害者と加害者、落ち込む人と励ます人。
人は役割を変えながら、繰り返し同じようなことを学んでいるように思います。
受け入れがたいそれを、受け入れるために。

もちろん、聖人ではないので、何もかもを一瞬で赦したり、常にやさしい気持ちで人に接せられるわけではありません。
未だに、過去を過ぎ去ったものとは思えず、傷の痛みにのたうち回ることも、激しい憎しみに焦がされることもあります。

それでも、あの時のあの人の配役が今度は自分に回ってきたと気付く時、「受け入れること」がはじまっている気がするのです。