私ばっかり我慢して、遠慮していると言う怒りの裏側(1)

ある日、些細なことでめちゃくちゃ怒りが湧いてきました。

あーーー私ばっかり我慢して!
こんなにも遠慮してるのに!
こんなにも気を遣っているのに!
キーーーーーー!!

そんな気持ちを書き殴っていく中で、
どうして、苦しい気持ちになりながら、わざわざ我慢や遠慮を選んでしまうのだろう?
と考えていたところ、
聞き分けがよくて、都合が良くて、犠牲になるほど愛してもらえる
...というとんでもないマイルールがあることに気づいたんですね。
今日はそんなお話。


愛することと、強者・弱者

どうしてそう考えたのか。
突き詰めていくと、愛する者は強者、愛される者は弱者、と言う思い込みに気づきました(親子の愛情ベースからこの考え方がきているのかもしれません)。
そして、誰かに愛される時、弱者たる自分は、強者=愛してくれる人に従わないといけない、拒否権はない、という思い込みがあることも気付きました。

だから、愛してくれる相手を大事に優先しよう、と優しい気持ちで決めたことでも、いつしか相手のためにこんなに遠慮や我慢している、そしてそのことを嫌とは言ってはならない…というような、変にこじれた思いが湧いてくるのだ、と気付きました。
その考え方は同時に、誰かを愛する時、こんなに私が愛しているから、(弱者である)あなたには拒否権がないのだからね、という脅しっぽく反転してしまうこともあるのだな、と気付きました。

それはちょっとイヤだなぁ。


どんな風に愛し愛されたい?

愛し愛されることとは、どんな形が理想だろう…と考えていて、「相手との関係性という名の樹を育てていく」というイメージがぽんと湧いてきました。

例えば、相手はこれが好きでこれが嫌いなんだなとか、こういう時にこんな風に表現するんだなという知識や、相手と過ごした時間や経験、それらがにょきにょきと枝葉のように伸びて、樹木のように育っていく、そんなイメージです。

そう考えると、あなたと私のどちらが強い弱いというバランス関係で考えることは、ちょっとそぐわないな、と気付きました。

そう考えてみると、上に立つ愛する者から、目下の愛される者に流れ込むのでなく、横に並んで対等に、双方向にやりとりされるもの、と考えるのが自然だな、と感じました。
たとえば仮に親子という関係だとしても、お互いがお互いを大事に思う、その時は年齢や役割関係なく、対等に愛情がやり取りされているという考え方がいいな、と思ったのでした。


まとめ

愛情と立場の強さを紐づけると、「私は弱い立場だから我慢しないと」「私も強い立場の役になりたい」…みたいな、変なバランスの駆け引きになって疲れてしまうのでは、と思います。
そうじゃなくて、ただ対等に愛情を伝えると決めることで、駆け引きにエネルギーを使わずに、もっとシンプルに相手を大事にすることに注力できるのではないでしょうか。

明日は、そこからさらに、愛する・愛されるとはどういうことかな、と考えて気付いたことを書いてみたいと思います。