昨日の話に少し関連するかもしれない気づき。





昨日の話では、「見たくないな」「向き合いたくないな」と明確にテンションが下がっていることと向き合ってみたのですが、

「な〜んか面倒くさいな」という気持ちにもまた、
向き合いたくない思いが隠れているかもしれない、というお話です。



面倒なことの裏側の怖さ

新しいことに取り組みたい。
でも、なんだかエンジンがかからないな。
なんでだろう?と考えていた時に、

「なんか、そのことを考えるのが面倒臭い...」
「なんか、始めるのが億劫だから...」
という、漠然とした理由が出てきたんですね。

そういう時は一旦茶でも飲む。



何がこんな腰を重くさせてるんだろう?

とさらに考えると、

「その新しいことを始めたら、また、すごーく頑張んなきゃいけないんでしょう...」
という怖さが出てきたんですね。





また、昔みたいに、無茶して頑張りすぎたらどうしよう。
そんな状況、考えたくないな。
考えるのやめよう...(思考停止)

となって、億劫とか、面倒とかいう言葉が出てきていると気づいたのです。



どうしたらいいのか

怖いことが、本当に必ず起こるのか?
避けられないか?
と考えるのがおすすめです。

そもそも、「〜になったらどうしよう」と不安になっている時点で、
そのままそのイヤな状況に突進していくことはないはずなんですよね。

もう既に、それを避けたいと気づいているので。





「目の前の電柱にぶつかりたくない、絶対ぶつからないぞ...」と言いながら激突する人は多分少ないですよね。

少なくとも、避けて歩くはずです(避けたら別のガードレールにぶつかった、とかいう話は一旦置いとくとして)。




過去の自分が、その状況に陥っていたとしても、
今の自分は、その時の体験をもとに、別の選択肢を取りうるのです。

電柱に激突しない選択を。


怖いことが、本当に必ず起こるのか?
避けられないか?
と再度指差し確認して、怖さという電柱を回避する新しいルートを辿れる自分がいることに気づけるといいのかもしれません。



まとめ

面倒臭さや億劫さの裏に、怖がりな自分が隠れていることがある、というお話でした。