自由にわがままが言えない状態というのには、以下の段階があるのではないだろうか、と仮説を立ててみた。


・したい or しようと思っちゃいけない(そもそもしていいと知らない)

・一人でしちゃいけない

・他人を巻き込んでしちゃいけない


どういうこと?もう少し具体例を話してみましょう。



影織家のごはんの話


子供の頃、母親が作った料理に「味が薄い」とか、「量が少ない」とか言うことは重罪でした。まして、塩やソースを勝手にかけたりしたら死あるのみでした。いや、死なないけども笑

(母としては、料理に口を出される=己の存在そのものにケチをつけられて否定された!みたいに捉えていたのだろうなぁと今は思います)


そんな中で育ったので、私は一人暮らしをしても、出来上がった料理を味変したり、後から肉を追加したり...ということができなかったのです。
たとえばカレーを作って、二日目以降に肉が足りないな、と思っても、最初に投入した一パック分の量で満足しなければならない...いや、するのが当然と思い、それを疑うことすらなかったのですね。


パートナーと結婚してから、完成した野菜炒めに突然豆板醤を足したり、二日目の煮物にどかどかと新しい肉を足しているのを見て、
「こ、こんなのありなんだ...(;゚Д゚)」
と静かな衝撃を受けました。

なるほど、「料理の味や量を後から調節しても問題にならない世界線があるのか」とその時気づいたのです。





ある日、一緒に作った料理の味が薄い時がありました。
でも、味が薄いことを表明するのは、私の世界では重罪だったので、黙って食べていたところ、

  • もしかして、おいしくない??

一発でバレました。

  • あ、あ、あの...すこーし、ほんのすこーしだけ、味が薄いような、気がしなくもないような...
  • ほ???塩かけたら???

恐る恐る塩をかけながら、「なるほど、【自分で勝手に】料理の味や量を後から調節しても、問題にならない世界線が存在するのか」とその時気づいたのです。





また別の日、ごはんに芯が残っている日がありました(引っ越す時に持ち運びが面倒なので我が家は炊飯器がなく、鍋炊きです。パートナーが炊飯大臣)。

でも、芯が残っていることを表明することにはやはり抵抗があって、黙って食べていたところ、

  • もしかして、ご飯に芯が残ってるからしょんぼりしてる??

一発でバレました。
影織の理解の解像度が高いんだわ。

  • 水を加えて炊き直そうね〜

とお茶碗を持っていかれて、死にそうになりました。
ご飯にお気持ち表明しただけでなく、手を煩わせてしまった...!重罪!死刑!処すべし!と。

でも、もちろん怒られることはなく、その後無事においしいご飯が出てきました。


おそるおそるほかほかご飯を食べながら、「なるほど、【誰かに助けてもらいながら】料理の味や量を後から調節しても、問題にならない世界線があるのか」とその時気づいたのです。



これらのステップを繰り返し踏んで(あまりに強力なブロックだったので、今でもまだたまに出るものの)、ようやく夕飯の味付けに対して、自由な意見やわがままを言えるようになっていきました。



許可の段階


料理の味や量を後から調節するという観点で、私の中には

A. 他人がそれをやっていてもいい
B. 自分の責任の範囲内で、自分もそれをやってもいい
C. 他人が絡む範囲で、自分もそれをやってもいい

という三段ステップがありました。


Aの段階は、そもそも自分の中に無意識の禁止があることに気づくステップ
人がおかずに塩をかけているのを見て、自分の中では、無意識にそれがタブーとされている世界に生きていたのだ、と気づくタイミングでした。

Bの段階は、その禁止を限定的に超えるステップ
自分の食べる分のおかずに塩を振ってみて、自己完結する=他人を巻き込まない範囲でタブーを踏み越えてみてもいいんだ、と気づくタイミングでした。

Cの段階は、その禁止をさらに大きく超えるステップ
ご飯を炊き直してもらいながら、他人を巻き込みながらタブーを踏み越えてみてもいいんだ、と気づくタイミングでした。




これ、多分ステップを飛ばして進むのはかなり難しいのではないかな、と思います。
一つずつ踏んで、自分の中に許可を出すことで、少しずつわがままが言えるようになっていくのだと思うのです。


では、どうしたらそのステップを踏めるのか?

そのためには、
タブーを超えている人を見て、それでもいいんだと納得し、受容すること
実際に自分がタブーを超えてみること

ではないでしょうか。


もし私が、できたての野菜炒めに豆板醤を乗せるパートナーを見て、ありえない!と怒って拒絶していたら、わがままを言ってもいいんだとは思えなかったでしょう。

また、味が薄くても気にしてないふりをして完食したり、ご飯を炊き直してもらうのを断っていたら、やっぱりわがままを言う許可は出なかったでしょう。


自分がダメだと思うものを、「それもあり」と受け入れて、少しでも実際の行動に移してみることが、わがままの領域を広げることに大事なのではないかな、と思うのです。



まとめ

わがままをちょっとずつ広げていくためのステップの話でした。


この記事を書きながらふと、真に「自由に生きる」って、他人を介さないと難しいんじゃないかな、という思いが湧いてきました。

自分の中のタブー、すなわち自由ではない部分を見せてくれるのも他人だし、そのタブーを越えるためにも、他人との関わりが必要になってくるので。


自由に生きるために、一人きりで思うまま振る舞うことも大事なんだけど、ほんとに「自由」を感じる瞬間って、他者とのコミュニケーションがベースにあってこそなんじゃないかな。