本を読むことはコントロールできる。理解するかどうかはコントロールできない。

 最近、この本をめっちゃ読み込んでいます。

この本の中で、以下のような文章が出てきたんですね。

何はコントロールできて、何はできないかについて、アーネスト・カーツはこんなふうに言っています。(『The Spirituality of Imperfection』より)

 

ベッドに入るかどうかはコントロールできる。眠りはコントロールできない。

 

本を読むことはコントロールできる。理解するかどうかはコントロールできない。

 

遊びを始めることはコントロールできる。ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。

 

知識を蓄えることはコントロールできる。知恵を得るかどうかはコントロールできない。

この中の、「本を読むことはコントロールできる。理解するかどうかはコントロールできない。」の一文に、すごく衝撃を受けたんですね。

え、嘘でしょ? 理解は自分で完全にコントロールできるもの、というかすべきものでしょ?なんで? 

...ということで、原典に当たることにしました。


コントロールできること、できないこと 

この著者のErnest Kurzsは、アルコール依存症の患者と家族の相談や啓蒙、研究に哲学的な面からアプローチした人です。

The Spirituality of Imperfectionの中では、私たちの生きる現代が "Age of Disordered Will"、すなわち「無秩序な意志(=選択の能力)の時代」だというLeslie Farberの論を引いています(p.125-)。

ここで、冒頭に紹介した部分が出てきます。
私たちは、この表の左側は意志をもって選び取ることができるけれど、右側は直接選び取ることができないものだ、と述べられています。

directly willbut not
knowledge(知識)wisdom(知恵)
pleasure(快楽)hapiness(幸福)
congratulations(祝辞)admiration(感嘆、感心)
reading/listening(読む、聞く)understanding(理解する)
going to bed(ベッドに入る)sleeping(眠る)
meekness(素直、柔和)humility(謙虚)
execting a play(試合する)wininng a game(勝つ)
dryness(禁酒)sobriety(しらふ)

※対訳は筆者付記

そしてこの右側の直接選び取れないものをコントロールしようとすることで、不安な気持ちになり、その結果依存・中毒を引き起こすのだ、という論が展開されていきます。



理解することはコントロールできない

自分にとって、理解することは完全に意志でコントロールできることだと思っていました。

理解できるまで繰り返しやれば、100%理解できて当然なんだから、できない・わからないということは甘え。自分の努力が足りない。恥。もっとやれ。
そう考えることに、何も疑いを持たなかったんですね。


でも、
ベッドに入っても必ず眠れるとは限らないくらいに、
あるいは試合に出ても必ず勝てるとは限らないくらいに、
何か知識を見聞きしても、必ず理解できるとは限らないのだとしたら。
そう考えてみると、なんだかすごくほっとしたんですよね。

理解できない自分を恥じたり、隠そうとしたり、ごまかそうとしたりする必要はない。
ベッドに入ってすぐ入眠できない自分を恥じたり、隠そうとしたり、ごまかそうとしたりする必要はないのと同じで。

理解できるまで自分を追い詰める必要もない。
眠れるまで自分を追い詰める必要がないのと同じで。

とにかく早く理解しないと、今の自分ならこれくらいは理解できていないと、という型に当てはめて自分を責めなくていい。
とにかく早く眠らないと、今日の疲労困憊した自分なら30分以内に眠らないと、と自分を責めなくていいのと同じで。

理解できないことがあるのは甘えじゃない。
眠れない日があるのと同じで。


そうして、理解が自分の意志で完全にコントロールできないことが少しずつわかってくると、
理解すること、理解にまつわる他人からの評価(これが理解できないなんてバカだって思われたらどうしようなど)をコントロールするのはやめよう。
何を読むか、何を使って学ぶかなど、自分に選べることを選んで、できることをやろう
コントロールできないことは手放していいから、もっと自由に、もっと安心していいんだ。
そんな気持ちになっていきました。


まとめ

自分では本当はコントロールできないものをコントロールしていることに気づいて、手放していくことで楽になれるというお話でした。