できない自分を認めるのがなぜ怖かったのか(前編)

できない自分がどうしてこんなに嫌いで認められなかったのか気づいた話です。


できない自分を認める怖さ

きっかけは、最近イタリア語の語学学校の次のレベルに通い始めたことでした。

初回授業で、以前取っていたクラスと違って、全部イタリア語で授業が進み、英語がほぼ使われないので、聞いていてわからない部分が少なからずあったんですね。

しかも、クラスの人がかなりペラペラ喋れていることもあって、

「どうしよう...このままわからないことだらけで、僕は一人だけ取り残されて、落ちこぼれのダメな奴になっちゃうんだ...もうだめだ〜〜」とぼのぼのみたいになってしまったわけです(元ネタがわからない方はこちらの動画をどうぞ)。

 

私の中で、この心の動きは、今に始まったことではなく、昔から結構あったんですよね。

授業を受けるにしろ、習い事をするにしろ、勉強会に参加するにしろ、
何かを身につけようとするときに、
「うまくできない」「よくわからない」がすごくいけないことのような気がして、怖かったのです。

だから、できない、わからないことを極力無くすように、できるまで、わかるまで死ぬ気で努力し続ける、というやり方を取ってきました。
そして、本当に死ぬ気で自分の全てをかけてやってもダメだ、とわかったら、ボロボロに傷ついてその場を去る(例えば習い事ならばやめてしまう、とか)ということを繰り返していました。

そしてその結果、ある程度うまくいって、いろんなことをある程度できるようになることはできました。
でも毎回、すごく消耗していたんですよね。
そりゃそうです。できない、わからないを無くすために、楽しむことや休むことを犠牲にしてきたのですから。


恥について学んでみた

今回もまたこのパターンが来てしまったな、と思って、ふとこの本を手に取ったんですよね。

できないことがすごく恥ずかしい、わからないことは格好悪くて恥ずかしい、という思いが強かったので、いっちょ「」と向き合ってみたらどうか、と思ったのです。
この中に、こんな一文がありました。
罪悪感は、特定の具体的な行動に対して生じます。そして、その行動についての後悔や反省、迷惑をかけた相手に対してあやまりたい気持ち、問題を解決したい気持ちへと結びつきます。

一方、恥は理屈抜きの身体感覚として襲ってくるため、罪悪感よりもさらに強烈な行動規範になります。 恥を感じる対象は「特定の具体的な行動」にとどまらず、その行動をした「自分という存在そのもの」にも及びます。

ここまで読んで、おや?と思ったんですよね。

できないことやわからないことはダメだ、と思う気持ちは罪悪感だと思っていたのですが、ごくごく自然に、できないことで「自分という存在そのもの」を否定していた(できない自分は「落ちこぼれのダメな奴」と認識している)と気づいたのです。
これまで罪悪感だと思っていたものは全部恥で、それが私の行動を強く縛っていたのか、と改めて気づいたんですね。

そして、その後の項で、「自分には価値がない、ダメな存在だ」などの存在そのものに関わる恥の感情を「中核的な恥(コア・シェイム)」という、と説明されていました。
この中核的な恥を持っていると、些細なことで恥の感情に圧倒されやすくなり、社会的な価値観による恥(学歴が低いとか、離婚したとかなどによって感じる恥)も強くなってしまうのだそうです。

このコア・シェイムは、外から植え付けられたもので、私自身の恥ではないのだそうです。

とすると、いつも、なんだか自分が恥ずかしい存在のような気がして苦しかったけれど、
この恥は、もしかしたら必要ない感情なのかもしれない。
じゃあ、どうやったらこの感情に圧倒されずにいられる?

ということで、さらに色々調べ始めたのです。

だいぶ長くなりそうなので、次回に続きます。