自立したからこそ「救済」を求めることができるというお話

昨日の記事では、自分が許せない自分を許し、受け入れてくれる「救済者」的な存在を持つといいと気づいた、というお話を書きました。
昨日は、どちらかと言えば頭の中にあることを直出ししたような文章だったので、もう少しその補足的なお話をしましょう。


なぜ救済者というアイデアが出てきたのか

昨日の記事を書くに至ったのは、「さみしさや弱さを受け入れてほしい」という気持ちと、「さみしさなんか持ってはいけない、弱い自分はだめだ」という気持ちが自分の中でぶつかって、ぐちゃぐちゃになっていたのがきっかけでした。

自分の中で相反する気持ちが衝突しているので、
「こんなに辛いんだ、わかってほしい」
「そうやって悲劇のヒロインぶって気を引こうとするのは無意味で間違っている」
「そんなこと言ったら、この辛さはどうなるんだ、報われない」
「報われてほしいという考えが甘い、もっと強くあれ」
...などなど、とにかく延々自分の中でケンカが止まらないわけです。
これではしんどいですよね。



心にぽっかり穴が空いているようなさみしさを抱えていると、楽しいことをしても、忙しさか刺激かで埋めようとしても、どうやってもその心の穴から何か漏れ出していくような感じで、いつまでも満たされない苦しさを感じるものです。

それを他人に満たそうとしてもらおうとすれば、いわゆる共依存状態になって地獄を見ることもありますし、「あなたのそんな重さは抱え切れない」と相手に迷惑がられて、余計傷を増やすことだってあります。

そうすると、今度は自分でなんとかしよう、となっていきます。
私の場合、人にすがって色々な形で大怪我をしたので笑、自分でやるぞ、という気持ちがすごく強くなって、それである程度うまく行ったんですよね。

我慢し過ぎないで、自分の意見を述べてみる。
自分の好きなもので周りを固めていく。
嫌だな、と思ったところからは少し距離を置く。
あるいは、なぜ嫌だと感じるのかを分析して、自分の傷を見つけていく。
さみしい、辛いと感じることには過去の古傷が関係していることが多い。
だったら、その傷を検分して、今はもうその当時と違うのだと理解することで、痛みにくくなる。

そういうことを一つずつ重ねて、だいぶ元気になったわけです。

でも、そうやって一人で黙々と向き合い続けても、「あの時本当にさみしかったんだ」「なんであんな目に遭わなきゃいけなかったんだ」という深い部分の傷はずっと残っていたのです。
それが傷としていまだに残っていると頭では理解できても、理不尽な気持ちや、悔しい、悲しいという気持ちに納得できていたわけではなかったんですね。

同時に、いつまでも傷として握りしめている自分自身にも苛立っていたのです。
いい加減手放して、もっと早く、もっと前に進めよ。
いつも同じパターンで苦しんで、いい加減にしろよ。
どうしようもなくて仕方なかったんだから、さっさと納得しろよ。
と。

そうして自分の中で、さみしい自分と、それを振り払おうとする自分の意見がぶつかって苦しんでいたわけです。何度向き合っても、いつもこの部分で行き詰まってしまうので、自分一人でなんとかする、というのことに限界を感じたんですね。
そこで、もう、なんかすごい人(救済者)に弱い自分を全部許してもらおう、一人じゃできない全部を預けてしまおう、と色々諦めたのです。
そうしたら、すごく楽になったんですね。


自立したからこそ救済者に頼る

多分、自分でどうにかしようという過程をすっ飛ばして、依存の向き先を救済者に変えるだけだったとしたら、きっと状況はあまり変わっていなかっただろうと思います。
救済者がたとえ私の全部を受け入れてくれるとしても、状況自体をいい方向に変えてはくれないと不満を持ったり、他人は救済者のように自分を受け入れてくれることはないのだから、もう誰とも関わりたくない、と心を閉ざしたりしていたかもしれません。

自分でなんとかしよう、と決めて行動したから、状況をいい方向に変えることができたのだし、
自分で自分を救おうと決めたから、他人に多くを期待し過ぎなくなって、むしろ他人がわざわざ自分のためにしてくれる全てが奇跡のようだと深く感謝しながら、誰かと過ごすことに喜びを感じられるようになったのだと思うのです。


まとめ

今回気づいたことも、自分の中ではだいぶ大きな悟りとなりました笑

最近になって気づいてきたのですが、自力でコントロールできることは意外と少ないんですね。
一人で何もかも頑張る自立の次のステージとして、誰かに頼る、救済者に願うという形で、心地よい生き方を模索していけたらいいな、と思ったのでした。