チャレンジを前に「どうせ自分には無理」と諦めてしまう時の考え方(後編)

昨日の話で、他人の評価を得るようなチャレンジを前にすると「自分にはどうせできない」と諦めがちだ、という話をしました。
その理由は、悪い評価を下されれば、自分の属するコミュニティにいられなくなる(その結果生存が危うくなる)、と考えていたからでした。

今日は、その思考を減らすにはどう考えたらいいかを書いてみたいと思います。



評価と所属

例えば、私は10年くらい続けている習い事がありますが、そこでもし悪い評価を下されたら、そこにいられなくなりそうだ、だから、無理してでも必死に技術レベルを上げなくては...と考えがちでした。


これも「悪い評価を下されれば、自分の属するコミュニティにいられなくなる」という恐れがあるから、そう考えていたんですね。
この思考について、もう少し突っ込んで考えてみます。

悪い評価を受けたら、人から信頼を失ってしまう
信頼を失ったら、失望され、周りに責め立てられて、その場所、コミュニティにいられなくなってしまう
そんな流れが見えてきました。


それって当然のことでは、とぐるぐる考えていたのですが、ふと、
ここで言う「評価」は、その人の働きぶりや成果に対する評価や信頼と、人間性に対する評価や信頼とが一緒くたになっている、とわかったんですね。

仕事ができないなら、人としてもダメ。
成果が出ていないなら、人として信頼できない。

...いや、そんなことはないよな...!?と気づいたのです。


成果が出ないからといって、必ずしも暖かい人間関係を結べないかといったら、そういうわけではないですよね。

最初の習い事の例では、技術レベルが低いからといって、他のメンバーからの信頼を無くす、という考え方は少し不自然です。
技術のうまさに関わらず、友人や先輩・後輩として仲良く過ごすことだってできるでしょう。

仕事というフィールドで成果を上げられなければ、もしかしたらその場所から離れざるをえないこともあるかもしれません。
でも、そうしたら、そこは合わなかったというだけで、また他の場所を探してもいいのかもしれないですよね。



所属と生存

もう一つ、自分の属するコミュニティにいられなくなると死ぬ、という考えについても触れておきましょう。

コミュニティに安全に所属したいというのは、もはや本能的なものではないかと思います。
原始時代、コミュニティから追放されたら、単身でマンモスなどの外敵から身を守ることはとても難しかったでしょう。その名残で、脳が過剰に反応している可能性があります。


また、家庭や学校という小さなコミュニティしか知らなかった子供時代に、そこでの安全な所属に失敗した経験があれば、そこで爪弾きにされたら、もうどこにも居場所はない...という絶望感に囚われてしまうかもしれません。


でも、今や令和時代で、自分は(これを読んでいるあなたもきっと)大人です。

あるコミュニティを抜けたからといってマンモスやオオカミに襲われることもないですし、
そこを抜けたらどこにも居場所がなくなる、ということもありません。

合わないコミニュティを離れ、自分に合うコミュニティを探したり、自ら作ったりしていいですし、いろんなコミュニティに所属することもできるのです。



まとめ

評価と所属は、必ずしも関係ない。
成果を出し、評価をもらって信頼を勝ち得ることと、
人間性(優しさ、暖かさ、性格etc.)を信頼されることはまた別のこと。


所属と生存は、必ずしも関係ない。
あるコミュニティに所属できなくても死ぬような事態はないし、
所属を選べるコミュニティは一つじゃない。
コミュニティは自分で探したり、作ったりもできる。


こうして「評価」「所属」「生存」を切り分けて考えることで、
他人の評価を得るようなチャレンジを前にした時、やってみようかな、と一歩踏み出せるのかなと思います。