自分の存在価値なんてないと絶望する時の考え方

最近だいぶ少なくなってきたものの、「自分(自分の発信、作品、言葉)は存在価値がない」という思いが時々顔を出すことがあります。

例えば人にとても優しくしてもらった時、大切に扱われた時、嬉しいという気持ちと同時に、存在価値のない自分なのに、こんな良くしてもらって申し訳ないなという思いがほんのうっすら湧いて、遠慮したいような、受け取りきれないような思いにかられるんですね。

以前はもっとこじれていて、この世にたくさんアーティストがいて、すてきな作品を作って注目を集める中、わざわざ自分のちっぽけな作品を生み出す価値がない、みたいにスネまくっていることもありました(そういえば最近そういうのなくなったなぁ)。


存在価値ってなんだろね

「私なんて、私の作品なんて、存在価値がないんだ!」と安易に絶望してしまうくせに、存在価値とはそもそも何かよくわかってないな、と思ったので、辞書で調べてみることにしました。
存在価値を存在 + 価値に分解して、それぞれを辞書で調べている中で、はっと気づくことがありました。

価値の項目を見ていると、「欲求や関心の度合いにより価値は相対的なものともなる」とあったんですね。
当たり前といえば当たり前のことですが、この「相対的」にすごく衝撃を受けたのです。

誰かがおまえはダメな人間だ、邪魔な存在だと言った時、
誰かが君の作品はつまらないと言った時、
それはその人にとってそう感じただけで、絶対的な私の価値になるわけではない。
ダメで邪魔でつまらない=本当の私の価値なんだ…なんて思わなくていい。
だって相対的だから。

誰かが私を大事だよと言ってくれた時、
誰かが私の作品をすごく素敵で好きですと言ってくれた時、
自分の見積もりよりも過大評価されているように感じられて、いやいやそんなことあるわけないと卑下したくなる。
でも、そう言ってくれた人は確かにそれだけの価値を私や私の作品の中に見つけてくれた。
本当の私の価値はもっと低いのにな…」なんて思わなくていい。
だって相対的だから。

本当の私の価値、なんて絶対的なものはない。
あるのは、私が思う私の価値と、誰かが思う私の価値。
つまり数えきれないほどの尺度。
たったひとつに決めるものではない。


まとめ

こう考えていくと、存在価値というものは結構あいまいなものだと気付きました。
絶対的に存在価値が決まっていないとしたら、それにとらわれなくてもいいのかもしれません。
優しくしてもらったり、褒められたりしたら、存在価値とは結び付けないで、ただありがたく受け取る。
ぞんざいに扱われそうになったり、嫌な言葉を受け取りそうになったりしたら、存在価値とは結び付けないで、ただNoを言う。

世界は意外にシンプルなのかもしれません。