正しく振る舞わなければならない、と窮屈な時の考え方

指摘と人格否定


間違えた時、失敗した時、ミスをした時。

その過失についての指摘だけでなく、人格の否定をセットでされる経験がありました。

これはしてはいけない、間違いだ、というのはその問題に関する指摘ですが、
そんな間違いをするお前という人間はおかしい、ダメな人間だ、というのは人格の否定です。


その経験から、自分は「正しくある」ということに、とかくこだわりがちでした。

自分の振る舞いは正しいかどうか。
自分の発言は正しいかどうか。


その裏側には、

正しくあらねば、相手にぼこぼこに否定されたり、仲間外れにされたりする、という恐怖があったのだ、と気づいたのです。

そして、正しくあることで、自分らしく自由に振る舞う権利がようやく得られる、と思い込んでいたことにも気づいたんですね。


身を守るための正しさ


また、よく考えると、そこで目指す「正しさ」というのは、

倫理的、道徳的、技術的な正しさというわけでは必ずしもなく、


「相手の機嫌を損ねない」「周囲から浮かない」という、

相手にとって正しい選択かどうか、ということが基準になっていることがある、とわかったんですね。


本当は、絶対的な「正しさ」なんてないのかもしれません。

今、正しいとされていることは、常識がひっくり返れば正しくなくなるかもしれません。

自分にとって正しいことが、相手にとっても同じように正しいとも限りません。

正しい、と言っていることは、あくまで自分にとって正しいこと、なんですね。


正しさは、その人の中にしかないのです。



まとめ

自分の正しさに関わらず、自由に振る舞って、自己主張したっていいんです。

正しさと自分らしさは、独立のものとみなしていいんですね。


コメントを投稿

0 コメント