「間違えた」とめちゃくちゃ自分を責めてしまう思考の癖(後編)

前回前々回の記事に引き続き、「間違えた」とめちゃくちゃ自分を責めてしまうことについて考察していきたいと思います。

前回は、決まった正解となるルールや約束を破ってしまう「間違い」をした時は、前向きに仕組みで解決していこう、そこに自己否定の痛みはいらない、というお話をしましたね。

今日はそれ以外、例えば、絶対的な正解がないもの(人の機嫌など)を損ねるような言動をしてしまった「間違いモドキ」の対処法を考えましょう。

 

「間違いモドキ」の対処法

なぜ間違いモドキが怖いのか

前々回の話で、何かを間違った時、自分を強く責めて監視することで、その痛みから次回同じ過ちを繰り返さないように気をつけていた、と書きました。

なぜ間違いモドキを起こさないようにそんなに気をつけていたかと言うと、もし、自分の言動がきっかけで人が機嫌を損ねたら、自分はその人に見捨てられ、切り捨てられてしまう、と感じて恐ろしかったからです(この話はブログで何度か書いた気がする)。

そこまで考えて、見捨てられるとか、切り捨てられるとかいう表現はとても一方的で受け身な態度だな...と思ったのですね。

なんで、自分は常に選んでもらう側だという前提なんだろう。
なんで、自分に選択権はないんだろう。

見捨てられるかどうかじゃなくて、私がその人と付き合いたいか、付き合いたくないか、という話じゃないのか

相手が私を選ぶのと同じように、私も相手を選ぶんだ。
そこは対等なものなはずなのに。


間違いじゃない、違いだ

本来対等なはずなのに、どうしても「見捨てられる」「切り捨てられる」と恐れているのは、子供の頃の記憶を引きずったままだからなのかな、と思います。

私事ですが、私の母親は、突然謎のキレポイントでキレ出すことがよくありました。
例えば、母の作った料理に対して、「今日の味付け薄いね」「しょっぱいね」などと言うと、突然口をきいてくれなくなる、みたいな笑

その度に「自分は発言を間違ったのだ」とショックを受けていたのですが、
大人になってから、人の作ってくれた料理にそうしたフィードバックをしてもいいし、むしろそれを伝えることで喜ばれることがあるんだな、あの時自分が間違ったわけじゃなかったんだ、とようやく知りました。


相手の機嫌を損ねた時、「悪いことしちゃったな」と罪悪感を感じます。

けれど、それは間違いという罪を犯したわけではなくて、その人にとって都合の悪いことだった、その人の感性に合わなかっただけなんですよね。

つまり、間違いじゃなくて、ただの考え方や価値観の違いだったんだ(大発見)。

「自分は間違えた」とキリキリするのでなく、まず「これは違いだったんだ」「自分も相手も、間違っているわけじゃないんだな」と安心すればいいんです。


そうして安心したら、次の一手を考えましょう。

「間違い」ではなく「違い」なのだとしたら、自分をなんとか相手に合わせて矯正しなくては、そうすることで機嫌を取らなくては...と焦る必要はないことがわかります。

逆に、なんとか相手に自分の正しさをわからせよう、相手の間違いを示して納得させよう、と無闇に頑張る必要もないわけです。


自分にできることは、相手が機嫌を損ねた理由を尋ねたり、必要ならば謝ったり、自分の意図を説明したり、違いをすり合わせるためのコミュニケーションを取ることだけ。
だから、そこに注力するのです。

どんなに努力したって、相手の機嫌を上向きにコントロールすることは、できないのです。
人の気分や機嫌は、その人にしか動かせないものですからね。


まとめ

自分の言動が相手の機嫌を損ねてしまった時、「自分が間違えた」のではなく、「自分と相手の間に違いがあった」のです。
だから、自分の間違いを直そうと己を責めるのでも、相手の間違いを正そうと相手を責めるのでもなく、相手と自分の違いを理解し、すり合わせをしようとすればいいのですね。

今回も、いろんなことを考えたので全三部の大長編ブログになりました笑
事あるごとに「間違えた...」と自分を責めてしまいやすい人の参考になれば幸いです。