編集

創作していて、SNSで他人の作品を見るたびに消耗してしまう時の考え方

インスタを見ていて、めちゃくちゃカッコいいARを見つけました。


すごくないですか。アナログ作品とARの境目がわからないくらいに融合していて、魔法みたい。

いいなー!こういうの作りたい!
...と、考えていて、ふと、一時期、AR作品を見るたびにしんどくなって、インスタを見られなくなった時期があったなーと思い出したのです。

そういえば、その手の苦しさがいつの間にか消えていた。なんでだろう?


ARを見るのが苦しくなっていた頃

当時、ARの受託開発の仕事をしていたのですが、忙しさや、なんとか納期までにバグのないものをリリースせねば、という重圧でひぃひぃしていました。
そんな中でふと、AR作品が流れてくるのを見るたび、「休みの時くらい、仕事のことを何も考えないでいたい...」と、どんよりした気持ちになっていたのです。

そして何より、仕事でいっぱいいっぱいな中、さらに自分のAR作品を作りたいという気持ちが湧きづらくなっていたことへの後ろめたさもありました。
人の素敵な作品を見るたびに、制作していない自分が置いていかれるような焦燥感を感じたり、動けていない自分を責める気持ちが湧いたり、自分にはできないという劣等感に打ちのめされたり。

ARが、楽しみや喜びではなくって、自分を追い立てる道具になってしまっていたのですね。


価値証明をやめる選択

その頃の私は、
ARを作れる自分には価値がある=ARを作れない自分には価値がない
という公式を信じて生きていたように思います。

受託の仕事にしろ、個人開発にしろ、ARを作って見せることが、自分の存在価値を証明したり、プレゼンスを示すツールになっていたような感覚でしょうか。


その状態から抜けたのは、価値の物差しで、自分の活動を測るのをやめたからではないか、と思います。
というのも、価値の物差しで測って、ジャッジし、ジャッジされる世界の中に、わざわざ自分で選んで滞在していた、と気づいたことが大きいと思います。

...ふむ?ちょっと抽象的な言い回しかな。


仕事で価値を生み出せないなら、お金がもらえずに死んでしまう。
創作で価値を生み出せないなら、人に認めてもらえず、何者にもなれずに沈んでいく。
そう思って生きてきたけれど...本当に、それだけが世界の全てかしら?

価値を生み出すことが生存条件、という険しい生き方でなく、自分の好きなことや楽しいことを追求して、穏やかな生き方をしている人たちと会話する中で、もっと別の世界観もあるらしいぞ?と気づいたのが最初の一歩でした。

けれども、別の世界線に自分もいける、とは信じることができませんでした。
なので、問いを立て直したのです。
苦しい世界線を【わざわざ】選んで、人に価値を認めてもらおうとするルートに、【あえて】しがみついているのはなぜだろう?
...すっごくイヤ〜な問いですね。笑


私が"あえて"そこにいたのは、優勢なポジションを獲得し続けて、誰かに認めてもらうことさえできれば、安全が手に入る、と信じていたからだと思います。この「安全」が、喉から手が出るほど欲しいものだったのですよね。
もし価値の物差しを捨てた世界に行ってしまったら、一生「安全」が手に入らなくなってしまうと思った。だからこそ、そこの中に必死で留まろうとしていたのです。


そこからどうしたか。
めちゃくちゃ怖いまま、価値を生み出すことを放棄したのです。
簡単に言えば、一旦仕事を辞めて、パートナーに生活を支えてもらう生活をしてみることを選びました。

正直、頭下げてこんなことを頼むくらいなら、腹切って死んで詫びろ...!くらいの思いがありました。なので、仕事を辞めると決める前も、決めてからも、毎日のようにギャーギャーして泣いていましたし、パートナーとも相当たくさん話し合いました。

しかし価値証明としての仕事を実際に辞め、それでも死なない、という日々を少しずつ積み重ねていく中で、あれ、これでも生きてていいんだ...?実は安全なのかも...?を、少しずつ体に染み渡らせていったのです。

それから、価値証明とまったく無関係、例えばお金にならないけれどなんか楽しそう、という活動にいろいろ首を突っ込んで、ただ楽しむ、という時間を人生に増やした結果、いつしか「価値の物差しで自分の活動を測り、優位な状態でなければ死ぬ」という強固な思い込みが少しずつ外れていったのです。


マルチポテンシャライトとして生きること

最後に、ここまで考えたことをもとに、マルチポテンシャライトとしての生き方について、少しだけ語ってみたいと思います。

私はいわゆる「マルチポテンシャライト」として生きているのですが、「多様な分野の知識やスキルを持ち、いろいろできることが、私の価値を高める」という視点ではなくって、「興味を持ったことを、次々に楽しんで満足する、こういう生き方が私の幸せ」という視点で生きられるようになったな、と感じます。


もし、価値の物差しに乗り続けていたら、マルチポテンシャライトという特性すらも、自分の強さや価値を証明する武器にしていたことでしょう(し、実際過去には武器として認識していました)。

マルチポテンシャライト性を、価値の火力の高さを誇るために武器にしはじめると、興味を持って始めたことも苦しいものになってしまいます。
私がARを嫌になりかけたように。

そうではなく、楽しいことを自由に、追い求める生き方を選びながら、人生の楽しさを底上げしてくれる性質として活かしていきたいし、同様にマルチポテンシャライト性を活かしながら楽しく生きる人を後押ししていけたらいいなぁと思ったのでした。


まとめ

今でも価値証明の不安は時々顔を出しますし、ハラキリコールが脳内に鳴り響くこともあります。

が、昔と比べたらだいぶ穏やかに、「価値を証明するためでなく、楽しいことを、楽しく追い求める」という生き方に舵を切れたように思います。

そんな考え生ぬるい、甘ったれんなって昔の私は怒るかもしれません。
でも、武器を持たなくても安心して生きられる世界は、あるんだよな。
そこに行くために必要なのは、今を乗り越える我慢や努力じゃなく、一番見たくない問いを見て、行動する勇気なんだよな。