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ほうれん草が嫌いでよかったわ!だって好きだったら食べなきゃいけないもの

以前、イタリアに引っ越してきたばかりの頃。
「こういう海外生活が終わって帰国することになれば、きっとめちゃくちゃ寂しくなってしまうだろう」と思っていました。ずっと終わってほしくない、と、終わりを恐れていたように思います。
その後ドイツに引っ越し、次のポーランドへの引っ越しを控えた今。
考えてみると、もし急に日本に戻ることになったとしても、特に強い寂しさや名残惜しさはないな、という気持ちになっていることに気づきました。
これって、海外でさまざまな経験をするということに、満たされたからではないか。

もう一歩進んで、すごく面白いことを発見しました。
満たされてないと、それがなくなることがすごく不安になるのかも。
でも、満たされた時の視線で見たら、なくなることはもう怖くないのかも。

どの世界線から判断するのか

ふとここからなんとなく思い出したのが、子供の頃に読んだ論理パズル本に書いてあった、以下の「ほうれん草のジョーク」です。
たしかこの本だったかな。

女の子:「私、ほうれん草が嫌いでよかったわ!」
大人:「どうして?」
女の子:「だって、もし好きだったら食べなきゃいけなくなるじゃない。私、あんな大嫌いなものを食べるなんてゾッとするわ!」

ほうれん草好きな世界線にいる自分として食べていたら、好きなのだから、当たり前に食べるでしょう。それなのに、ほうれん草が嫌いな自分目線の味覚や感情でジャッジしてるのがウケるよね、というジョークでした。


さて。このジョークを抱えて、冒頭の話に戻りましょう。

何か大事なものを失ったり、関わり方が変わったりすることは、すごく怖いことのように見えますし、そうした変化に直面したら、引き裂かれるような強い痛みがあるだろう、と予測してしまうものです。
でも強い怖さや痛みがあるのは、そこに執着があるというか、それを強く必要としていて、絶対に手放したくない、という気持ちがある時なのだと思います。
私の例で言えば、日本に帰りたくない、と切に願うのは、まだここにいたいという気持ちが強い時でしょう。

一方、もし満ち足りていて、手放しても大丈夫、という世界線に移動していたら、その時には離れることに怖さも痛みも感じることなく、満ちたまま離れるという選択もできるのでは、と思ったのです。


その変化に気づいてしまった時、ある種のさみしさを感じます。
ずっと同じようなテンションを持ち続けられたらよかったのにな、という気持ちも湧くかもしれません。
でも、満たされたからこそ、見え方が変わったのだよな。とも思うのです。


まとめ

だからどうしたって言われたら、それに気づいたってお話。笑

今は怖い別れでも、満たされた未来の自分から見た時に怖くないかもしれないということは、次の変化を選ぶための、ひとつの勇気になるのかもしれない。

満ちたまま離れる時は、ちゃんと満ちているからきっと大丈夫なのだと思う。