今朝、数年ぶりに礼拝に参加して、その中の説教で「自分が誰からも愛されていないと思う時は、神の愛を忘れている時だ」という言葉にはっとした、というお話です。

(特定の宗教を信仰していても、していなくても読めるお話です)

どうせ私なんて

家族や恋人や友人、優しい人が周りにたくさんいるのに、物事がうまくいっていない現実を前にして「どうせ私なんて愛されない人間だから、こんななんだよね」と拗ねることがしばしばあります。

例えば、頑張ったのに人に評価をもらえないとか、こうしてくれたらいいのになぁ、と相手にかけていた期待が裏切られた時。
どうせ自分なんか…といじける時、大抵、自分と周囲、あるいは自分と相手という横のつながりにスポットライトを当てて、うまくいかないと嘆いています。

ここで自分と神(仏でも、宇宙でも、大自然でも、先祖でも、何でもいいのですが、自分を取り巻く大きな存在のようなもの)という縦のつながりの視点を思い出すと、「あっ、目の前の出来事で、人に愛されないと思ってしまったけど、自分は何かもっともっと大きなものに愛されて守られている」と、すごくほっとした気持ちになることに気づきました。


あまりに自力本願で、神のことを忘れていた

私は幼少期からミッション系のスクールに通っていたので、毎朝当たり前のように礼拝を受けていました。しかし卒業後は、教会に通ったり礼拝に参加したりという機会がぱったりなくなっていました。

さらに大学に入ってから、いろいろ対人関係で苦労する中で、個人的に心理学を学ぶようになり、「問題は自分の考え方が原因で現れているものだから、思考を変えることで解決できる」「目の前の出来事の受け取り方は、すべて自分次第」ととらえることが増えてきました。

そんな中で、「問題は、人に相談したりしつつも、基本的に自分一人で解決していくものだ(神仏にも頼らねーぜ)」というツッパリ思考(笑)が強化されていったように思います。

もちろん、それで成長できたこと、強くなれた部分もあるのですが、たまにそれをこじらせて、どうせ自分は独りぼっちだ、いや、他人との繋がりなんてのは全てまやかしで、ひとは誰でも幸せ探す旅人のようなものさ…という荒んだ気分になることもありました。
しかし今日久々に礼拝に参加して、「あ、神の愛、忘れてた」と気づいたんですね。

一人で問題解決しようと闘いながら、どうせ自分なんてダメだから愛されないとがっくりしてしまう、私に似たあなたへ。
何度か繰り返し口に出してみてください。
「私は神(仏、先祖、etc.)に守られ、愛されているから大丈夫だ」と。
きっと、迷子がおかあさんを見つけた時のような、ほっとしたような気持ちになると思いますよ。


まとめ

自分が誰からも愛されていないと思う時は、神の愛を忘れている時だ。
この言葉は折に触れて思い出したいと思います。
そして今後も、神の愛を思い出す機会として、時々礼拝に足を運びたいなと思いました。