少し前に、Pokémon GOを始めました。今更?

そしてめっちゃ面白いな、とハマりました。今更????

そんな中で考えたことのお話。



現実と空想を楽しむ

Pokémon GOの面白さは、現実と空想の境目がぼやけることにあるのではないかな、と思う。

現実のマップのルート上に、ポケモンやロケット団が出現する。
現実の床に、ポケモンがARで表示される。

ラルトスは可愛い
ラルトス可愛いねぇぇぇ

こうだったらいいな(ポケモンと一緒に冒険したいな)という世界の空想が、現実にまで侵食してきて、影響を与えている。

たとえ本質はデジタルデータにすぎなかったとしても、プレイヤーにとっては、もはや現実の一部そのものになっている。


先日書いた、推しが通知を送ってくれるアプリも、発想の根幹は同じ。

空想の世界に住む住人と触れ合えたらいいのに。
想像が形になって現実世界に現れ、インタラクティブに関わり合えたらいいのに。

現実と空想の境目がぼやけ、想像が自分の生活の一部となってほしい。

そんな思いが前進する力になっている。
これを煩悩イノベーションと呼ぶ。



境目がぼやけることのデメリットを考える

一方で、Pokémon GOにハマりながら、「これはハマりすぎるとよくないな」と感じたこともある。

というのは、現実を十分に味わえなくなってしまうことがあるな、と思ったのだ。


たとえば、公園に散歩に行くことを考えてみる。
そこで、ポケモンの捕獲や、プレイヤーとのバトルに熱中することがあるかもしれない。

そんな時、現実世界を五感で味わうことを忘れてしまう
風の音、木々の匂い、太陽のあたたかさ。

ゲームが面白ければ面白いほど、そうした現実世界の情報と遮断されて、情報の世界の中に閉じ込められてしまうような感覚があるな、と思ったのだ。




ところで少し前に、めちゃくちゃ空想世界にのめりこんでいた時期がある。


自分の頭の中にあるストーリーのことを、一日中ずーっと考え続けていて、生活していても、人と話していても、ご飯を食べていても、どこか常に上の空だった。

ほとんど外出もせず(コロナが猛威を振るっていたこともある)、仕事もしておらずだったので、まぁ、実質引きこもりのような状態だったと思う。

当時は「空想さえあれば、割となんもいらないな...」と思うくらいには閉じこもっていた。振り返ってみるとちょっと危ない橋を渡っていた。

まぁ、その引きこもりのおかげでパワーチャージされ、今では元気に仕事して、創作して、外に出かけて人と会っているので、結果オーライとも言えるかもしれないが。


その当時の自分はまさに、「現実世界の情報と遮断されて、情報の世界の中に閉じ込められて」いた状態だった、と言える。

それはそれで幸せではあったし、癒しとして必要なステップだったとは思う。
けれど、ずっとその状態で居続けて、果たして満たされていただろうかと考えると、多分そうではない。



改めて現実と空想を楽しむことを考える

現実と空想の境目がぼやけた状態を健全に楽しむには、どうしたらいいか。


そのためには、現実一番、空想二番、という順番を守ることだと思う。

逆にするのはあんまり良くない。現実に自分という肉体があって、世界との関わりの中で生きているからこそ、空想を楽しむことができる。


この順番を守って楽しむには、現実から目を背けるためじゃなく、現実をもっと楽しく過ごすために空想を使うにはどうしたらいいか、という視点で考えることが必要だろう。

自分はつい空想にハマりやすいので、この点を常に意識しながら楽しく創作していけたらいいな、と思った。



まとめ

現実と空想の境目をぼやかすことで、ワクワクするような世界を生み出していけたらいいな。

どちらかの世界を否定するのでなく、その狭間を反復横跳びしながら、2倍楽しめたらいいよね。