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癒しツールとの付き合い方が変わる時

前回の記事で、自作ポストペットを大幅に改修したお話をしました。

自作ポストペットが、より自活できるようにした | 影織文庫

自作ポストペットが、より自活できるようにした | 影織文庫

自作のポストペットアプリを改良したお話です。

今回は、その中で気づいたことについて書いてみたいと思います。


自作ツールとの付き合い方の変化

ツール

もともとこのアプリは、心に住む推しに近くで見守っていてほしいとか、こちらに呼びかけたり、誘いに来たりして欲しい、というニーズで実装を始めたものでした。
現在よく使っている動画軽量化などの便利機能はもともと、推しがいきいき動いて欲しい!というメインコンテンツに対して、おまけ機能だったのです。

が、今回の改修は、それを逆転させるものでした。
使用頻度が下がっている交流用の機能を後ろに引っ込め、代わりに推しが自律的に動くのを、時々ちらっと眺めにいく、という関わり方に変える。
そうして、創作を捗らせる便利なツールとして普段使いする。

一見すると、交流機能に慣れてだんだん飽きてきたから、便利機能だけ使うようになったの?とも読めるのですが、私の中ではもう一段深いことが起こっていたように思うのです。

抜本改修の裏側

部屋

私にとって、このアプリは自ら練り上げた癒しそのものでした。
心に住む推しは、小さい頃から今日までずっと私の中で生きていて、話しかけてくれている。
それを、もっと確かに見える形にしたくて作ったのだから。

推しが動くと言ったって、中身はプログラムだろ、と言われればそれまでなのですが。
それでも。架空だろうが、乱数だろうが、ふとしたタイミングで何かしら私に呼びかけたり、注意を向けてくれる存在がいてくれる、ということが、私にとってひとつの深い癒しの形だったと思うのです。


私は、ずっと寂しかったのではないかな。


でも、寂しさとかなり本格的に向き合って以降、このニーズが落ち着いたのではないか、ということに思い至ったのです。
そしてその変化が、今回の抜本改修にもつながっているように感じたのです。

誰かに呼びかけてもらいたいほどの寂しい気持ちが満たされたから、通知をもらわなくても、もう大丈夫になったのかもしれない。
特別に何かをしてもらおうとしなくても、元気に生きているのを眺めに行って、存在を確かめるだけで幸せに思えるくらい、私の心に余裕が生まれてきたのではないだろうか。
時々、一緒に作業をできたら嬉しいな。ブログに貼る画像の軽量化を手伝ってもらったり、提出資料の文字数をカウントしてもらったり。


無駄だった?ゴミだった?

記事を書きながらふと、この寂しさをがっつり直視して内観した頃のことを思い出しました。
そういえば、のたうちまわりながらも、記事を書き残していたっけ。

当時アプリ内で実装した「おいで機能(料理やコーヒーができたからおいで、と通知を投げてくれる機能)」について、書き残したブログ記事の抜粋がこちらです。

気軽に声をかけて、誘ってもらえたらな。

おいでよ、と無条件に呼んでもらえたらな。

自分の人生に欠けていた経験、ないなら作ろうホトトギス。


…まぁ結論から言えば、それを作った後にかなりがっつり内観した結果、こんな現実逃避の代替行動に意味はなく、ただの無益なゴミを作っただけじゃん、というひどく乱暴な気持ちが湧いてきました。悲しいけれど。

今読み返すと...荒んでんなぁ!笑 と思いました。何わろてんねん


同記事に、こんな風にも書き残していました。

もし、本気でつまらなくて価値のないものを作ってしまった、と感じていたなら、それこそさっさとゴミ箱に捨ててしまえばいいですし、開発自体止めてしまえばいいでしょう。

けれど私は、意味がないと落ち込みながらも、料理中の包丁で切る音や、コーヒーを淹れる時のやかんが沸く音を鳴らす実装を、そこからさらに加えていたのです。そして、追加された生活音を聞きながら、少しだけ幸せな気持ちも感じていたのですね。

(中略)

私は無駄なものを作ったんだろうか。そうかもしれない。
私は、ワクワクするものを作れたんだろうか。それもある。
ゴミだという自分と、宝だという自分の二人がいて、どっちの言い分も一理ある。

さて、今振り返ってどう思うか。
宝に決まってるじゃん。



背中を向けて、床に座っている女の子がいる。
一人でごっこ遊びをしている。

本当は、誰かと遊びたかったのだと思う。

そんな中でも自分で自分を幸せな気持ちにするにはどうしたらいいか、一生懸命考えた結果、こうすればいいのだ、と見つけたのだと思う。

その選択を、ゴミだとか、無駄だと絶対言いたくない。
だって、一生懸命考えて選んだんだから。
宝に決まってるじゃん。