昨日の続きです。

昨日は、この本を読みながら、恥の概念と、恥から来る完璧主義について書きました。


できないことがなぜ恥ずかしかったのか

私の小さい頃の話をしましょう。


私はバレエを習っていました。
でも、バレエの先生は私にとって厳しくて、毎週がプレッシャーでした。

先生が教えた通りの動きを繰り返さなければならないのですが、間違えると
「違う!」
「そうじゃないでしょ、こう!」
と強めに言われるんですね。

それが悔しくて、落ち込んで、毎週のレッスンで泣いていました。

先生は、「すぐ泣いちゃうから困っちゃうな...」と言っていて、
母は、そんな私を見て、
「本当に傷つきやすくて扱いに困る子、こんなに泣いてばっかりで恥ずかしい
と同意して、私を諭していました。


また、小学校の頃に、中学受験の塾に通っていたのですが、そこでは2週間に1度ほど、クラス分けのテストがありました。

私は一番上のクラスにいたのですが、ある日成績が悪くてひとつ下のクラスに落ちてしまったんですね。

一番上であることを保てなかったことのショックと惨めさとで、その日、私は気分が悪いと言って帰らせてもらったのです。

母は、そんな私を見て、「こんなことで帰るなんておかしいじゃないの。そんな大したことじゃないのに、恥ずかしい」と嘆いていました。




ここまで書き出してみて、気づいたのです。

私ができなくて泣いてしまうことを恥ずかしいと嘆いていたのは、母だったのです。


私は、うまくできないこと、よくわからないことが悔しくて、落ち込んで、ショックで、惨めで泣いていたのです。

その感情に寄り添って貰えなかったどころか、恥ずかしいことだと繰り返し言われてきたことで、居場所を無くしたような気持ちになってしまっていたのです(昨日書いたように、恥は自分の欠陥のせいで、愛や居場所を得るのに値しないと感じる体験だと定義されましたね)。


そんな体験から、できない・わからないことで落ち込むことは大したことがないことで、ましてそのことで感情を見せて泣くことは恥ずかしいことだ、と学んでしまったんですね。

それが繰り返し強化されて、できない=恥ずかしい、という構図ができてしまっていたのです。


できなかったことで悔しく悲しい気持ちになったのだ、とちゃんと理解できないまま、「恥ずかしいこと=感じるとヤバいもの」として蓋してしまったのです。

だから、大人になっても、できないやわからないに直面した時に途方に暮れて、できないこと(で落ち込むこと)の恥ずかしさを回避するために、必死に死ぬ気で努力していたのです。


私なら、なんて言うだろう


母の立場になりかわって、あの頃のうまくできない自分に声をかけてあげられたとしたら、なんて言ってあげられるだろう。

「うまく踊れなくて悔しかったんだよね、わかるよ」

「順番がわからなかったら、先生にもう一回聞けばいいんだよ」

「見ていてあげるから、家に帰ったら、あとで落ち着いて一緒にやってみよう」

「クラスが落ちて、急に居場所がなくなって、不安な気持ちになっちゃったんだね」

「いつも一番上じゃなくていいんだよ」

「自分に合ったクラスで、自分のペースで勉強すればいいんだよ」

「うまくできなくても、あなたのことが大事で大好きなことに変わりはないんだよ」


恥の体験を話すこと

このことに気づいてから、パートナーに勇気を出して、バレエと塾の話を話してみたんですね。


書き出して言語化できたとはいえ、うまく踊れなかったこと、クラスが落ちてしまったことのくだりは、やっぱりすごく恥ずかしくて、話そうとしても、もじもじしてしまいました。

でも、いざ話してみると、その内容について、笑ったり馬鹿にしたりされることはありませんでした


また、できないことで悔しがるような負けず嫌い気質は自分にもある、という話をしながら、

「踊れなかったことも、クラスが落ちたことも、それらの経験で落ち込んだことも、全然恥ずかしいことじゃないよ」

と言ってもらえて、すごくほっとしたんですよね。


まさに、ブレネーが次のように書いている通りだったのです。

共感とは、出来事や状況にではなく、その人が体験している感情に回路をつなぐことなのだ。「そうか、私だけではない、人間だからやってしまう失敗なんだ」と気づいた瞬間、恥は霧が晴れるように消えていった。


 

まとめ

今回の気づきは割と衝撃的なものでした(だからいっぱい書いた笑)。

うまくできないことって、恥ずかしいことじゃないんだ。
うまくできなくて、落ち込んだり悔しがったりしてもいいんだな。
「恥ずかしい」と思っていることを日の元に晒すことで、安心して人と繋がれるんだな。

私と同じようにできない自分を認めるのが怖い人に、この記事が少しでも参考になったら幸いです。