昨日の記事では、信頼と期待は別のもので、誰かの期待に応えられないからといって、その人の信頼を裏切るわけではない、という話をしました。


だから、誰かの期待に応えるために自分を追い込むのはやめよう、と思った時に、「期待を手放したくない!」と強く感じたというお話をしましょう。



期待されることは愛されること


直球で言うと、私にとって

期待されること=愛されること

だったので、手放すのが怖かったのです。


期待を受けるということは、「こいつすごいぞ、できるぞ」と注目されることですよね。

親や先生、偉い人に期待をかけてもらえることというのは、私にとって、注目して見てもらえる、見守ってもらえる、愛される感覚だったのです。


逆に言えば、期待されないということは、放棄されることであり、見捨てられることでした。
だから、喉から手が出るほど期待が欲しかったのです。



期待とは見張りではないか


期待は見守ってもらえるという感覚だ、と書きましたが、落ち着いて考えてみると、実は違うのではないか、とふと思いました。


昨日の記事で、期待は、相手が自分にとって望ましい選択や行動をすることを望む状態だ、と定義しました。

そう考えると、期待は見守りでなく、どちらかというと見張りに近いのではないか、と感じたのです。


ちゃんといい結果を出すかどうか、見張り続けること。
予想外の悪い結果にならないか、見張り続けること。

期待に応えられない時、見捨てられる状況が発生してしまう、というのは、そう考えると自然でしょう。


期待して見張ることと、落胆して見捨てることがワンセットになっているんですね。

そして、誰よりも私自身が一番、自分に期待して見張ったり、落胆して見放したりしていたのだ、ということにも気づいたのです。
そりゃ苦しくなるわけだ。



見守りとは信頼ではないか


では、本当の見守りの姿勢ってなんでしょう。
それが、信頼なのではないでしょうか。


パートナーは、私のことをすごく信頼してくれているな、と感じるのですが、それはいい意味で私に無関心なんですね。


「ちゃんと掃除しているかな、お皿洗ってくれるかな」などと見張らない。

「家計をきちんと支える計画を立ててくれているだろうか」などと期待を乗せない。

いくら泣いていても、動揺していても、過剰な心配をせずにそのままにしておく。

でも、ちょっと落ち込んでいるのを隠そうとすると、途端に気づいて聞き出す笑


見ているようで見ていなくて、
見ていないようで見ているんですね。

多分、見守りってそんな感じなんだと、最近ようやく気づいたのです。

自分を見張り続けて苦しむんじゃなく、優しく見守っていきたい。

そう考えてようやく、期待を手放そう、という思いに至りました。



まとめ

期待に応えようと必死になることを、もう手放してもいい。
自分を削って期待を集める、綱渡りのような必死の愛情探しは、もうしなくてもいい。

そんな風にしなくても、信頼して愛してくれる人は、気づけば周りにたくさんいた。


自分も同じように、人を信頼して生きていたい。
何より、自分で自分を信頼して生きていたい。

誠心誠意は尽くすけれど、自分にやれる範囲で、
自分らしくいられる範囲でできることをして、
人との間に信頼関係を育てていこう。


そして、自分で自分に期待をかけすぎるのもやめよう。
成果を出さなければ、まだ出さないのか、と自分を見張り続けるんじゃなく、
自分のすることを、ただ、ゆるく見守ってあげよう。