前回は、本気を出す、ちゃんとやる、ということが、他人に自分の正当性を主張したり、他人に愛されたりするためのツールになっていた、というお話でしたね。


「他人に正当性を主張する」<-> ???

本気でやることの目的となる
「他人に正当性を主張する、愛されるために」
反対にあたるものはなんでしょう。


これは人それぞれ違うかもしれないですが、私の場合、
「ただ、自分がそうありたいからする」
「自分に集中する」

ということになるのではないかな、と思いました。


見捨てられるかもしれない怖さ

でも、そう考えた次の瞬間には、

「いや、他人のことを考えないといけないよな」
「自分ばっかに集中しては良くないよね」

という思いが出てきたんですね。


さらに、他人のことを考えないとどうなってしまうんだろう...と考えた時に、

「自己中だから嫌われる、石をぶつけられる(なんで石?笑)」
「他人を粗末にする奴だって言われて、みんなに見捨てられる」
などの理由が出てきました。

人に見捨てられるかもシリーズ、本当に自分の中に根深くあるなぁと。



もし大丈夫だったら、どうしたいんだろう

そこでさらに、

「もし、他人のことを考えても考えなくても、
自分に集中してもしなくても、
人から石をぶつけられることがないとしたら、
私は一体どうしたいだろう?」

と考えてみました。


自分も他人も幸せにする

すると、

自分に集中して、他人も幸せにしたい。

と、めちゃくちゃ力強く思ったんですね。

その直後、他人の思惑を気にすると、そこにエネルギーが漏れて、ちょろちょろしか流せないけれど、

「自分に集中」したら、エネルギー漏れがなくなって、全方位に照射されて、桁違いに周囲を幸せにできるぞ、と気づいたのです(衝撃)。


...うーん、感覚的すぎる文章ですね!笑

もう少し詳しく書いてみます。


他人の思惑のコントロール

他人の思惑を気にする時って、そこにばかり集中してしまいますよね。
その人からの心象を上げたい、気に入られたい、悪く思われたくない、愛されたい。


まるで「特定の他人の思惑というピンポイントを外さないように狙う、的あてゲーム」みたいな感じでしょうか。
出力を絞り、当てるポイントを正確に定めて発射する、みたいな感じです。

どうしたって、的を狙うコントロールにエネルギーを使って、パワーも出力も落ちてしまうと思ったのです。


他人じゃなく、自分に集中する

また、ここで言う「自分に集中」は、決して自己中ワガママ放題、ということではありません


「人にどう思われるか、見捨てられたらやだな」みたいな不安から行動するのをスッパリやめるということ」、と定義しておきましょうか。


自分に集中すれば、何かをコントロールしよう、という余計なところにエネルギーを食わなくなります。
つまり、過度な気遣い、先回り、不穏な妄想、機嫌を伺う...などで、余計なエネルギー消費しなくていい


だから、でっかいパワーが溜まるのです。


そしてさらに、
「あの人にこう思われたい」
「でもこの人にはこう思われたくない」
みたいなピンポイントの的あてじゃなくなるので、
なんというか、自然と全方位にエネルギーが溢れていくように思うんですね。

私のイメージ的には、太陽のように全方位に放射する感じです。


だからもう、自分に集中するしかないな。
だってそうしたら、マジで自分と、より多くの人を幸せにできる。
と、素直に思えたのです。


改めて、「本気でやる」「ちゃんとやる」を考える

楽と本気は共存できる

さて、前回の一番最初の話に立ち返りましょう。


私は「楽にやる」にイライラしてました。
なぜなら、楽にやるとき、
「本気でやる」「ちゃんとやる」ができてない、
と思ったからでした。

※もう一回前回記事を読みたい人はこちらから。読んだら戻ってきてね〜


ここまで考えたら、楽にやることと、本気でちゃんとやることは両立できる、と思ったのです。

体や心を楽な状態に整えていれば、
自分により集中できる状態になる。

だからより本気で、ちゃんと「それ」に取り組める。

安心して、「楽」も「本気」も一緒に追求していいんだ。

そう気づいたのでした。



まとめ

自分に集中したら、出力が桁違いになって、周囲を圧倒的に幸せにできる。

と、気づいたお話でした。

自分に集中していきたい。