※スピリチュアル寄りの話。あと影織節(とは)が炸裂します。

お好きな方だけ続きをどうぞ〜!


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「ちゃんと期待に応えないと、必要とされず切り捨てられて死ぬ」

「できないと見捨てられるから死ぬ気で頑張れ」

という観念が、自分の中にいまだにしつこく残っていました。


なんでかな?と向き合っていく中で、

能力や才能、ひいてはそれにより得られるお金に安心が立脚している。 

だから、仕事の出来一つで存在が揺らいでしまう。

と気づいたんですね。



しばらく考えていて、ふとこんなメッセージが浮かんできました。


愛されているという安心に立脚した方がいい。


これまでは、能力や成果に根を張ろうとしていたから、

揺らいで、その度に根を張り直す必要があった。

愛を拠点にすれば揺るがない。

存在が愛に根を張りさえしたら、あとは全部おまけのようなもの。


根拠のない自信を持つことだ。

愛されているから、上手くいく。

あるいは、愛されているから、上手くいかなくてもいい。



能力や成果は、自力で(死ぬ気で)頑張ればなんとかなるから、

ある程度コントロールできるし、信頼できるものだ、と思っていました。


そして、仮に理不尽に自分の存在を否定したりされるようなことがあっても、

自分の能力や成果をちゃんと持っていれば、存在の正当性を証明できるような気がしていたのです。

さながら黄門様の印籠みたいに。控えおろう。


(まぁそもそも、自分の存在の正当性を他人に証明しなきゃいけない、という前提は、一つの歪みではあるとも思う)



一方、その発想でいくと、

能力が認められなければ、

あるいは成果が出なければ、

それだけで自分の存在がぐらぐらしてしまうのでした。

だからこそ、つい成果を上げることに、必死になってしまうんですね。


そうではなくて、

何か大きなものに見守られている、という愛(人によっては、それを信仰と呼ぶのかもしれない)を自分の存在の立脚点にしたら、とても安心できるな、と思ったのです。



自分の中心に、何を置くのか、もっと自覚的にならなくちゃ。

自分の存在の根幹、自分の存在を支えるものに何を置くのか。


愛を拠点にしたら、安定して、太く力強く、自分の中の幹を育てていけるでしょう。

そうしたら、評価も成果も、全て枝葉に過ぎないと気付くのかもしれません。



まとめ

ということで、自分という存在の立脚点についてじっと考えた日記でした。

最近、メッセージ受信能力(って何?笑)強化してる気がする。