※これは内観上級者向け記事だ!





先日、ちょっとしたトラブルがありました。

オォォなんて自分は駄目なんだ...!としばし深い自己嫌悪に陥っていたのですが、その解決策を考えているうちに、

「...あー、今回の一連の流れは、この解決策を見つけるための事件だったのだな。このトラブルがこのタイミングで起きたのは、めちゃくちゃ丁度よかった。気づけてよかったわ

とスコン、と腑に落ちる瞬間があったのですね。




目の前のネガティブな事象との向き合い方


何か問題が起きて、自己嫌悪や他人責めの真っ只中で、「このトラブルに感謝しよう」なんて絶対思えないものです。そりゃそうだ。

感情の揺れ動きを、まずじっくり味わうのが第1ステップ。めちゃくちゃ泣いたり、落ち込んだり、オロオロしたり。
感情の大嵐が通り過ぎ、少し落ち着いたら、「この出来事は何を教えてくれているのだろう?」と考えるのが第2ステップです。


内観が上手になってくると、モヤっとすること、スムーズに進まないこと、ガーンとショックを受けることに出会うと、ここ掘れポイントだな、と思えるようになっていきます。

問題なく進んでしまったら、実は困ることがある。
今、このタイミングで転び、そこから学ばないといけないことがある

後から振り返ると、必ずそうなのです。
トラウマ級の出来事も、最悪のトラブルも、「マジでこの経験、あってよかった...」と思う。
無理やりポジティブに「物事のいい面を見よう!」というのではなくて、ね。


トラウマ級の出来事はほんっとクソですし、最悪のトラブルだってほんっとクソです(言葉遣い!w)。
そんなクソみたいな出来事、人生にはない方が絶対によかった。
穏やかで、何事もなく安心して過ごしたかった。

けれど、それが起きたのは、自分の人生にとって、どうしたって必要だったのだ、とも同時に思うのです。

(これは本当に言語化しづらい部分です。
理不尽を正当化したり、辛さを肯定したりしたいわけではないのですが、どうしても言葉上そう見えてしまうんだよな...)





これはあくまで、私の解釈の一つに過ぎません。

前提として私は、問題は全て、自分が何か学んだり気づいたりする必要があるから立ち現れるのだ、と考えています。
だから、そういう出来事に直面したら、めちゃくちゃ落ち込んだり怒ったりと、感情を揺らし、必死でそれを解決して、それから「ここから何を得るのだろう?」と考えます。

感情が揺れている間も、解決策を考えている間も、目の前の出来事をどうにかしなきゃ...ということで頭がいっぱいです。俯瞰なんて言っている余裕はなく、その出来事にどっぷりと浸かり込んで、悩んだり苦しんだりしています。
ですが、その山を越えて落ち着いた先で、少しだけ俯瞰して、その出来事を見つめ直してみるのです。

その時に、「あぁ、これとこれが全部繋がって、この学びにつながるのか」と意味を見出すことができるのです。
「問題は、自分が何か学んだり気づいたりする必要があるから立ち現れるものだ」というフィルターを通して、その「クソみたいな出来事」を再解釈するので。




まとめ

とはいえ、「そうか!問題は、学びを得るための出来事なのか!」と言いながら、目の前の出来事を無理やりポジティブ変換すると詰みます

ここが取り扱いの難しいところなのです。
「そんな学びだなんて思えない...苦しいものは苦しいじゃないか!」
と感じるなら、「そんなところから学べるわけない」と思っていた方が、まだbetterです
無理なポジティブ変換は、もっと自分を苦しめるので。


「頑張ってこの問題から学べると思えるようにしよう
「どうにかこの苦しさから気づきを見つけないと
みたいな努力で辿り着くものじゃなくって、

「あ、繋がったわ。この学びが必要だったとしか思えない」
みたいな、確信めいた、自然にすっと入ってくる感覚になることがあるのですよね。


...と、こんな記事を書いていますが、私も悟りを開いたわけじゃないので、「学びなんてあるかよ〜〜もうやだ〜〜〜」と、どたばたに苦しむことはよくあります笑

けれども、たまに訪れるこの「あ、繋がった」の瞬間、世界は自分の解釈に過ぎないのだなぁ...と感じるのです。


ということで、今日はそんな風に感じた瞬間について記録を残してみた日記でした。