以前、以下の記事で「欲しい感情を得るための体験を、限定的なものにしないことが大切」と書きました。
 
日々をご機嫌に生きるための考え方

日々をご機嫌に生きるための考え方

人生をご機嫌に過ごすための考え方をまとめました。


この部分ね。

例えば、好きな服を買って身にまとい、満足感を感じる「ご機嫌」を例に考えてみましょう。
その時に、「好きな服を買って身にまとうことができなければ、あの満足感は得られない!!」と、思い込んでしまうことがあるのです。

そうなると、たとえばお金がなくて好きな服を買えないと、イライラするかもしれません。
あるいは、あの満足感を得るために服を買わなきゃ!と、服を買う行為自体に執着してしまうかもしれません(でもそうした焦燥感から買い物をしても、結局満足感が得られなくて、さらにモヤモヤしてしまったりして...)

これ、「好きな服を買って身にまとうことができなければ、あの満足感は得られない!!」
...と、体験の中身(=服の購入)にこだわるから苦しくなるんです。


実は、同種の満足感は、
・他のものを買うことでも味わえるかもしれない。
・そもそも何かを買わず、お金を使わずとも味わえるかもしれない。

体験ルートにこだわらないというのは、このような柔軟な発想を持つことです。


それはそう、たしかにそうだけど、もしかしてもう少し別の見方もあるのかもしれない、という話を今日はしたいと思います。



ハンバーグ食べたいって言ってハンバーグ食えよ


上で書いたことを言い換えるなら、「抽象度を上げることで、願いを叶えるルートが無数にあると気づく」ということです。


「ハンバーグを食べたい」という具体的な願いを「がっつりした肉料理が食べたい」と、一段階抽象度をあげれば、ステーキやとんかつなどの選択肢が増えるでしょう。
さらに抽象度を上げて、「空腹を満たしたい」という願いにすれば、ラーメンや寿司でもいいのかもしれません。

でも、と思ったのです。
それでも、どうしてもハンバーグを食べることが大事、ってこだわる瞬間があってもいいんじゃない?


...待って。よくよく考えてみれば、一周回って至極当たり前のことを書いているような気がするんだけど。笑
そりゃそうだわ、ハンバーグ食べたいってことは、ハンバーグ食べたいんだから(進次郎)。ハンバーグ食べたいって言ってハンバーグ食えよって話ではある。
抽象度を上げたら確かに同じ「喜び」かもしれないけど、ハンバーグを食べた時の喜び体験って、細かく見れば寿司とかステーキ食べた時とはちょっと違うんだから。


でも私は、「抽象度を上げることで、一つのルートにこだらない」ということに、こだわっていたのです。
一つのルートにこだわらず、どんなルートからでも願いを叶えて満足できる、そんな自分でいなければいけない、と
おいおいおい全くめんどっちい奴だなぁ...!


抽象度を上げることも大事だけれど、具体にこだわるのだって、同じ重さで大事にしてもいいのかもしれないよね






※以下、本記事の自分用言語化メモ。



モノや人や場所と、自分とが生み出す共振がそれぞれに違う。
「それ」から感じる振動が、自分に深く共鳴する。
その共振が、感情の正体なんだろうか?

ある響きは、別のところでは生み出せない。
類似した響きはたくさんあるかもしれないが、各振動は固有のものだから。

他の何とも違う共鳴の質。
私の内側のある部分が、「それ」と触れると静かに鳴る。

その時、存在が許される音を聞いている。
私はそれを聞いていたい。

諦めるな。
それを願うことを、私は私に許す。



まとめ

一周回ってむちゃむちゃ当たり前のことを書いた気がするな...
でも自分の中ではだいぶ大きな発見だったので、記事に書いてみました。


ということでもう一回書いておこ。
抽象度を上げることも大事だけれど、具体にこだわるのだって、同じ重さで大事にしてもいいのかもしれないよね。